読書感想2
前回の記事に引き続き、今回はアニメ「輪るピングドラム」について少し長めに感想を書いていきたいと思います。作品の重大な要素についてのネタバレ有り。あと厨二病激しいので恥ずかしくなったら記事消します。大学2年生なのに。
輪るピングドラム
Blu-rayめっちゃ欲しい。買え。
セーラームーン、少女革命ウテナを監督しそのショッキングかつ難解なストーリー展開、演出から以降のアニメ製作に大きな影響を与えるもウテナ以後、10年以上作品の監督を務めることはなかった(アニメのOP作成、一話だけの絵コンテ参加などはあった)幾原邦彦監督によるオリジナルアニメ。
高倉冠葉・晶馬の双子と、病弱な妹の陽毬だけの高倉家は3人だけで協力しながら暮らしていた。しかし水族館にでかけたある日陽毬は意識を失いそのまま一度亡くなってしまう。悲嘆にくれる兄弟の前で、水族館で買ったペンギン帽の力により陽毬は蘇生する。ペンギン帽が陽毬の意識を乗っ取って言うことには、陽毬の命を維持するためにはピングドラムを手に入れなければならず、兄弟はペンギン帽に宿っている人格(作中では言及がないがこの人格はプリンセス・オブ・ザ・クリスタルと通常呼ばれる)の命令のもと正体不明のピングドラムを手に入れるため奔走する。
物語の後半、実は高倉家の父親と母親は地下鉄爆破事件を起こしたカルト集団企鵝の会の幹部であり(明らかにサリン事件のオマージュである)、さらに兄弟は誰ひとりとして血がつながらない偽物の家族であったことが明らかとなる。
コミュニティの喪失 こどもブロイラー
こどもブロイラーに送られたこどもたちの行く末 20話より
輪るピングドラムにおいて登場人物ほぼ全てが失っている、もしくは獲得できていないものが自分を認め受け入れ、アイデンティティの礎となってくれるコミュニティです。
作品の世界は「氷の世界」と形容され「選ばれないことは、死ぬこと」という訳で、親から愛されなかった(選ばれなかった)子ども、期待に応えられなかった子ども、必要の無くなった子どもは「こどもブロイラー」と呼ばれる施設に捨てられます。(ゴミ収集車のようにいらない子どもを収集している。)そこで集められた子どもたちは大きなシュレッダーにかけられて「透明な存在」にされます。
「社会から見捨てられた子どもたちが行く場所だ
我々も手を出すことは出来ないし 救えない 氷の世界だ」
「そこに行った子どもはどうなるの?」
「透明になる」
「どういうこと?」
「彼らは何者にもなれない」
「死ぬってこと? そんな...」
「ここで僕らは透明な存在になって やがて世界から消えていくんだ」
「はい、それでは今から 皆さんを粉々に砕きます
怖くはありません 誰が誰だか わからなくなるだけです
透明な存在になるだけです」
怖い。アニメの映像で見ると本当に子どもたちが次々とシュレッダーにかけられて粉々のガラスの破片のようになるので放送時には若干規制がかかってました。
この作品に登場するほぼすべての子どもは親からの愛情を得られません。これは現代の社会を反映した設定になっているのではないだろうかと考えます。一昔前の社会においては子ども=働き手であって、子どもであっても子守や掃除などの仕事が与えられました。それをこなすことにより、子どもは両親から働き手として認められ承認欲求を満たすことが出来たのではないでしょうか。さらに昔は跡取りとして、また働き手として利用するためなど、ある程度子どもを生む理由が大きく社会からの子どもを生まなければいけないという圧力も大きかったでしょうし、子どもが産める状態にあってあえて子どもを産まないという選択肢を選ぶことは少なかったでしょう。
しかし現代においては子どもが家の中で行う仕事というものはほぼなくなってきており、また子どもを産まなくてはならないという社会からの圧力も徐々に弱まってきていて、子どもを産まないという道を選ぶ人も多く居ます。そのような中、あえて子どもを産むという選択をした人々はこどもになんらかの働き手として以上の期待、例えば「親よりも稼いで欲しい」だとか、「何者か」になってほしい(成功してほしい、勝ち組になってほしい)であるとかを抱いていることが多くあります。そしてこの期待に子どもが応えることに失敗した場合、子どもは親からの愛情を得ることに失敗します。これにより、子どもの中に失敗経験が深く刻まれ、場合によっては「自分は期待はずれの敗者なのだ、このまま何者にもなれず(個性を捨て、なるべくこれ以上親に迷惑をかけないよう)透明に生きていくのだ」という自己認識を得ることもあるでしょう。このように親との信頼関係の構築に失敗した子どもが自分を否定してしまう問題を輪るピングドラムでは「こどもブロイラー」として表現していると考えます。
生存戦略!
では、こどもブロイラーに送られた自己承認できないこどもたちはどうすれば良いのでしょうか。親からは愛情は得られません。ならばこの氷の世界をどのように生きれば他者に食いつぶされること無く生き延びられるでしょうか?
企鵝の会
眞悧率いる企鵝の会はこの世界を弱者(=選ばれなかった人、自己承認に失敗した人、愛されなかった人)が生き延びるためには、勝者が支配している世界の仕組みを壊すしか無いと考える集団です。
この世界は間違えている
勝ったとか負けたとか 誰のほうが上だとか下だかとか
儲かるとか儲からないとか
認められたとか認めてくれないとか
選ばれたとか選ばれなかったとか
やつらは人に何かを与えようとはせず いつも求められることばかり考えている
この世界はそんなつまらない きっと何者にもなれない奴らが支配している
もうここは氷の世界なんだ
しかし幸いなるかな 我々の手には希望の松明が燃えている これは聖なる炎
明日我々はこの炎によって世界を浄化する
今こそ取り戻そう 本当のことだけで人が生きられる美しい世界を
これが我々の生存戦略なのだ
人間ていうのは不自由な生き物だね。なぜって?
だって自分という箱から一生出られないからね。
その箱はね、僕達を守ってくれるわけじゃない。
僕達から大切なものを奪っているんだ。
例え隣に誰かいても、壁を超えて繋がることもできない。
僕らは皆一人ぼっちなのさ。
その箱の中で、僕達が何かを得ることは絶対にないだろう。
出口なんてどこにもないんだ。
誰も救えやしない。
だからさ、壊すしかないんだ。
箱を。人を。世界を…!
怪しすぎるカルトの大演説。これが大好きな人は大好きだと思うので頑張って考察したいのですが、スペース的にも私の脳みそ的にも厳しいので次の機会に。
この手法は、流石に解決策として採用できません。
運命の果実
運命の果実を、一緒に食べよう。
僕の愛も、君の罰も、すべて分け合うんだ。
対して高倉家の人々はどのような生存戦略をとったのか。それは運命の果実を一緒に食べる(=愛する)こと、つまり罪も罰も分け合うことでした。ここで述べられる罪は原罪のような人が生まれ持つ罪のことでもあるでしょうし、一緒に生きることで生じる擦れ違いやわだかまり、他人のいる煩わしさという罰、そのどちらも受け入れ愛するということです。貴方は私にとって他人ではなく、貴方の背負っているものを引き受けましょう、と一度でも誰かに言われるだけで愛されなかった子どもも生きていけます。愛されなかったという運命から、誰かに出会いその人と運命の果実を分け合うことで愛されることができる運命へと乗り換えることができます。
僕は、運命って言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸不幸、それらがあらかじめ運命によって決められているのなら、僕達は何の為に生まれてくるんだろう。裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争の真っただ中に生まれる人、それらが全て運命だとすれば、神様って奴はとんでもなく理不尽で残酷だ。あの時から僕達には未来なんてなく、ただきっと、何者にもなれないって事だけがはっきりしてたんだから・・・。
あたしは、運命って言葉が好き。だって、運命の出会いって言うでしょ。たった一つの出会いが、その後の人生をすっかり変えてしまう。そんな特別な出会いは偶然じゃない。それはきっと、運命。{中略}勿論、人生には幸せな出会いばかりじゃない。嫌な事、悲しい事だってたくさんある。自分ではどうしようもない。そういう不幸を運命だって受け入れるのはとても辛い事。でもあたしはこう思う、悲しい事、つらい事にもきっと意味があるんだって無駄な事なんて一つもない。だって、あたしは運命を信じているから。
解決策その3。運命の果実を分け合う。
輪るピングドラム未視聴の方にはとてもややこしくわかりづらい文章になってしまった上、既に話を知っている方にさえ理解できないような乱雑な文章になってしまい力不足をひしひしと感じています。このアニメは不可解に見える演出や挿話も多いですが、ペンギンを見ているだけでも楽しいので是非TSUTAYAかゲオでもレンタルをお勧めします。
P.S.
記事を書いている最中に京都大学新聞社のピングドラム批評を見つけました。サリン事件と震災、それによる日本社会の変化まで深く考察なされた興味深く意義ある批評だと思いますのでぜひご覧になってください。今回はここまでで4134文字!