感想文

読書・アニメ・映画・ドラマの感想、あと考えごと

つらい

合格発表が近づいてて、つまりは私の絶望が近づいてるってことだ。

ものすごく勉強したかと聞かれたら、肯定はできないのだけれど、それでも私の精一杯があれくらいだったんだと思う。だから、あれをもう一度やれと言われるとだいぶきつい。そんなことは言わないでくれ… 勉強不足の自分が悪いのはわかるけど。

 

試験終わってからは、毎日遊んで暮らしていて本当に幸せで楽しい日々だったのだけど、その反動なのか生理前のアレなのか酷く落ち込んだ気持ちだ。太ったのもあるし顔の肌荒れが酷いのもあるし、全てうまくいかないような気持ちになってしまう。はやく就職して自分は大丈夫な人間なんだと、安心したい気持ちでいっぱいだ。別に院に行っても就職できずにニートになっていようと、他人であれば何も気にならない(心配は多少するかもしれないけど、就職した人でも辛そうだったら心配するし同じことだ)。しかし自分事になるとダメだ。就職して稼がなきゃ、安定しなきゃ、じゃなきゃあんなに辛かった留学とかも、ぜんぶぜんぶ、無意味になってしまう。冷静に考えて人生に無意味とか意味とかそういうものはなく、ただ生きてるだけ、意味なんて後から勝手に人が決めつけるものだろう。私の前に道はない、私の後に道はできる。さよならだけが人生だ。

 

理想の人間像

 

オリラジの中田氏の記事で理想の夫がちょっとだけ話題になっていた。

 

これは過剰な合理化とか家事フローの問題とか、そういう視点から話をすることもできるとは思うのだが、今回は理想の役割を果たそうとするって間違ってない?って話をしようと思う。

 

夫婦関係、というより他者とのコミュニケーションというものは、その相手をしっかり見て彼ら彼女らが何を求めているのか、何をしてほしくないと思っているのかを見極めそれに対応することが重要で、そのスキルが高い人をコミュ力が高いと呼ぶのではないか。

たとえば就活の面接でも、面接官がどんな回答をするような人なら採用したくなるのか?を考えて会話を成立させるべきであるし、自分の話したいことを優先させるのはふさわしくない。休日課長の趣味の話もまさにそういう話だった。

 

ten-navi.com

 

でも中田さんの話は奥さんが満足してくれる、自分の家族をもっと幸福に快適にすごせるようにするためには何が重要だろうか?という視点が抜け落ちていた。世間一般から見た「理想の夫」を目指すあまり、一番大事な「奥さんはどう感じているのか」ということを無視してしまい「俺はこんなにやっていて、世間一般から見たら良き夫であるはずなのに、妻をつけあがらせ、要求がエスカレートした」と認識している。でもそもそも、奥さんは「世間一般から見た良き夫」なんてものを求めていたんだろうか?そこんとこの話し合いが必要なんじゃないか、とよそのご家庭のことを勝手に推測したりしていた。

 

こういう「相手の欲望を満たそうとして頑張っていたけど、実は「相手の理想の自分になって自己承認欲求を満たしたい」だけで、相手が本当にどう感じているのかには無頓着」という現象はどこにでもある。これは両者にとってあまりよくなく、自分は「どうしてこんなに頑張っているのに相手は評価してくれないのか?」と感じるし、相手は「どうして向こうの自己愛につきあわされなきゃいけないのか、もっとこちらをちゃんと見てほしい」と感じるだろう。

 

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さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

 

 

私の大好きな永田カビ先生も親との関係において近しいことを言っている。

 

SNS映えしたり世間一般から認められるような理想に近づくために努力することはもちろん立派だが、「褒められたい」という衝動に身を任せるのは注意すべきだ。

わたしも公認会計士試験の勉強を自宅でしていて孤独だったとき、「誰か私のことを褒めて、慰めて、励まして」とよく思っていたが(そういうブログ記事も書いたが)、そもそも公認会計士になりたいと言い出したのは私だし、公認会計士になって得するのも私である。もちろん褒められたらモチベーションが上がるし、試験合格のために予備校の先生は生徒の合否にビジネスとして利害関係をもつから、褒めたり励ましたりしてくれるだろうし、家族とか友達同士で褒めたり慰めたりすることは精神安定にすこぶる効く。しかしながら、あくまでも自己の理想に近づくための努力であることを理解して、「こんなに頑張っているのにどうして誰も褒めてくれないんだろう」と腐ってはいけない。優しさは当然あるものではなく、利害関係もしくは愛情から生まれるものなのだから、優しくしてくれる人にはこちらも愛情を持って、本当に相手が望んでいることをしてあげる(そして感謝されなくても気にしない)。

なんだか努力が認められなくてしんどいなあというときは、誰のための努力なのかを考えてみるのもいいのかもしれない。

日々のハードルは低めに、へこたれず。 

全員殺す

ブルーピリオドの感想です。別に私が全員殺そうとしてるわけではなく。

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

ブルーピリオドは藝大現役合格(藝大は美大の中で一番難関な大学)の作者による美大受験漫画。今のところ。作者としては、今後受験編、大学編、社会人編として続けていきたいと考えているらしい。

 

藝大がそもそもどのくらい難しいのかとか、学費がいくらなのかとか、美大の予備校って何を勉強するのかとか、美術ってセンス以外に何があるの?とか美術に関して知らないことだらけでした。個人的にわたしはちょこちょこ美術館とか行くので(自分で絵を描いたりはしない)、構図のこととか技法のこととかほんの少しだけ知ってはいたんですけど、それでも美大受験は知らないことだらけでめちゃくちゃ面白いです。美大漫画としては「ハチミツとクローバー」が有名だけれど、あの作者は美大に通った経験があるわけではないそうで(意外)、こちらの漫画は作者自身が藝大出身ということもあって圧倒的に現実に即していて、恋愛要素とかはほぼなくスポ根的。才能努力友情勝利。主人公がひたすら目の前のハードルを努力で乗り越えていく様が胸を打つし、やっぱ努力してる人はめちゃくちゃカッコいい。

 

思い出したけど「かくかくしかじか」も美大受験漫画ですね!でもあれは美大受験っていうか作者の半生を描いたノンフィクションエッセイっていうジャンルだし、スポ根要素は抑えめかな。美大受験あれこれよりあの強烈な先生の話に持っていかれちゃうもん。

 

あーやっぱ美大とか行ってみたかったな!ってなる〜〜〜〜!!!!

 

美大とかいく人はそもそもセンスの塊で努力とか関係ないんじゃねとか思っていたんですけど、そうでもないみたいです。勿論天才型の人間もいるんですけど(話にも何人か出てくる)彼らは彼らなりの葛藤とか躓きがあって、美術というのは決して才能だけで決まるわけじゃないんだなぁって感じました。才能、あるに越したことないんだろうけど。

 

主人公の八虎くんは器用でなんでも上手くこなせちゃうが故に何にものめり込むことのないDQNで、そんな彼が絵に出会って藝大に合格するためひたすら努力していくんですけど、そんな中美大予備校でセカイくんっていう天才に出会うんですね。デッサン初めて描いたのにめちゃくちゃ上手な天才タイプ。そして色々あって彼に「(八虎みたいに)何でもできるやつが絵なんか描いてんじゃねぇよ、俺はこれしかないのに」みたいなことを言われちゃう。八虎は絵が上手いセカイ君のことを尊敬してるし、嫉妬もしてるので、そんなことを言われてすごく落ち込んで泣き出してしまいます。でも自分の絵がセカイ君を黙らせるくらいすごくないからそんなことを言われてしまうんだ、絵を描くしかない、自分の絵で全員黙らせてやる、全員殺す。

めっっちゃかっこいい〜〜〜〜!!!!

自分の実力で全員黙らせてやろうとする意気、そのために逃げず淡々と絵に向かい努力する姿勢、めちゃくちゃかっこいい〜〜!!!!

 

そうなりたい。そうなりたいよ。

わたしも自分の実力で全員殺してぇ。

 

実際問題、どんなに実力のある人にだってやっかみしてくる人はいるし(羽生結弦選手も高校の時先輩に酷いやっかみを受けてたらしいです)、実力だけで全員黙らせようとする姿勢は良いことばっかじゃないと思うんです。キリがないので。でもはやくヤバくて強くて誰からも文句言われない存在になりたいね。

 

全員殺したいです。どうしたらそこまでいけるかな。

劇場版夏目友人帳 〜うつせみに結ぶ〜 感想

 

劇場版夏目友人帳を観てきた!

https://natsume-movie.com

 

前情報なしで観てきたのだけれど、原作のキャラクターがほとんど登場していて(出てこなかったのは的場さんくらいかな?)、わたしの好きな西村も多岐ちゃんも田沼も名取さんも出てたのでめっちゃ嬉しかった。アニメオリジナルストーリーは原作の雰囲気を壊したりしていないか視聴前は心配していたのだけど、原作のあの切なくて優しい感じはそのままで、心配は杞憂に終わった。作画も一貫して美しいし、背景も田舎の晩夏から初秋にかけての空気感をよく表現していて非常に感動した。

以下ネタバレ。

 

とにかく、夏目友人帳を2時間やった!ということに尽きた。中盤まで淡々と進む物語は山場や見せ場に欠けていて冗長な印象も受けたが、これこそ夏目友人帳と言われたらその通りである。

 

この作品は「すれ違い」を繰り返し表現している。解消されるすれ違いもあるし、解消されないままのすれ違いもある。

 

夏目は結城に妖が見えると勘違いし、お互いに気まずくなって、そのまま離れることになる。これは物語の最後に夏目から連絡を取り、お互いに話し謝罪することで和解する。

 

レイコさんは容莉枝から気味悪がられていると勘違いし、人とわかりあうことを放棄(したのでは、と夏目は推測している)。実際には容莉枝はレイコのことを憧れていたのだが、この勘違いは解かれぬままレイコは亡くなった。

 

椋雄に扮していた妖(名前忘れた〜〜!)は、容莉枝に真実を告げることはなく、記憶と共に居なくなり、人の世に戻ることはないと言った。ただ救いは少しだけあって、共に過ごした8年の歳月は確実に容莉枝の傷を癒したし、容莉枝は妖の本来の姿を見た。容莉枝は共に過ごした時間のことを忘れてしまったけれど、その時間は無くなったわけじゃなくて確かに容莉枝を支え癒した大切な時間だったのだと思う。

 

この3つのすれ違いとその結末が、この映画の重要なポイントである。

※他にもすれ違いとして、死んでしまった主人の命令を聞き続ける妖や、妖を巡る名取さんと夏目の行き違いも考えられると思うのだけど、これは本筋に絡んでこない。

 

人生は人と人との出会いとその結びつきの流れであり、それは滝の水の流れにも似ている、との描写が映画序盤でなされている。人と人の出会いで簡単に未来は変わってしまうし、しかし関わりあうことが人生なのだ。夏目はレイコさんには出来なかった人との関わりに挑み続け、結城と和解することができた。しかし、妖と容莉枝のように和解することもできず記憶からも失われてしまったとしても、出会った事実はなくならないし、出会いによって癒されお互いを支え合い、本当の家族ではなくても似てきたことは間違いない。たとえすれ違いが解消されなかったとしても(そして解消されずにどちらかが亡くなってしまうすれ違いの方が多いのだ)、実は貴方のことを想ってくれている人がいるのかもしれない(容莉枝の切り絵のきっかけがレイコさんを理解したいという気持ちからだったように)。だからなるべくすれ違いを恐れず人に手を伸ばすべきだし、すれ違いに終わってしまったとしてもそれ自体は否定されることではない。

そういう物語だとわたしは感じた。

 

言葉にしようとすると難しい! けれど夏目友人帳らしい優しくて切ない物語だった。また夏目友人帳の原作を読みたいな〜〜

生きてるとすれ違うことばかりだけど、すれ違うことすら肯定してみせる夏目友人帳はやっぱりすごく優しい物語だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

re: 人を大事にするということ

 

人を大事にするということ、という記事を元彼と別れて1ヶ月?くらいの頃に書いたんですけど、先日元彼と少しだけLINEで話をして。

 

そしたら私はもう自分が怒ってないし、むしろ近くにいた時より純粋な気持ちで相手のことを受け入れてあげられることに気づきました。もう二度と同じ道を歩いていくことは無いけれど、幸せになってくれると信じてるよ、と心の底から思えたんです。 きっとここが私と彼との丁度いい距離感なんだろうな、と。会わないことがベストだったんだろうなと思いました。

 

確かに今更そんなことに気づくなんて悲しいことなのかもしれない。でもあの時、強く強く思った全てを受け入れて許してあげたかったっていう願いが、別の形で成就したように感じました。友達にもなれないし、よりを戻すこともできないけど、これはこれで私なりの愛の形だなと。彼の側から見たら、彼の気持ちを一切無視してるし、おそらく愛だと気付いてもらえてないと思う。完全なる私の独りよがり、でも私はこれで結構満足しています。

彼はどうなのかなぁ。本気で友達に戻りたいなんて言っているのだろうか? でもたぶん、私たちの終着点はここだよ。何回やり直してもきっとこの距離にたどり着くだろうし、ここが一番あなたの幸せを心から願うことができる。友達になったらまた貴方のことを憎いと思って許せなくて苦しくてしんどい気持ちになっちゃうと思うんだ。

 

がんばってくれ。しあわせになれ。わたしは幸せだったよ。

母曰く

 

先日「私自身は全くいい人間ではないのに、いい人間だと思われたくて偽善を働いてしまう… そんな自分が嫌だ…」という気持ちになりました。

 

これは伊藤理佐が前に「いい人だと思われなくてよくない?別にいい人じゃないし、てかその方が楽だし」的なことを言ってて、感銘を受けて。いい人間だと思われようとめっちゃがんばる必要ってないのかなと思うようになったんです。

 

しかし就活の場においてはそんなことも言ってられないし、有能な自分を取り繕って相手に気に入ってもらえるようにヘコヘコしなきゃならないわけです。ヘコヘコしなきゃいけないってわけでもないのかな。私がついヘコヘコしてしまうというだけのことですね。

 

でも母曰く。やらない善よりやる偽善、取り繕いは身支度整えることと一緒、あからさまなヅラでも無いよりはマシ、だそうで。

あからさまなヅラでも無いよりはマシなのかなぁ… 明らかなヅラって周りの人困らないか…?

 

そんな感じです。

 

 

あんまり頑張らないで、でもへこたれないで

先月末、長く苦しまされた3日間の地獄(試験)が終了して、晴れて自由の身を勝ち取った。記述式試験だから自己採点はほぼほぼ無意味と割り切り、試験が終わってからは一切テキストを見てもいない。平和かつ退屈な日々である。

 

試験が終わったその足で買いに行ったゼルダもちょっとずつ進めていて、すごく楽しい。毎日がバラ色とまでは言えないけれど、試験前のあの焦燥感が消えただけで夜はよく眠れるし、友達と遊ぶ予定はたくさん詰まってるし、幸福だと感じることは多い。勉強しなきゃとか、本当はこんなことしている場合じゃないのにだとか考えなくてすむだけでだいぶ心が軽いものだなあと思う。試験は人間の健康に悪い。

 

研究室はあんまり行ってなくて(よくない)、代わりと言ってはなんだが婚活と就活をちまちまやっている。結婚は今できなくてもいいかなと思っているし、試験に落ちていたら就職もなにもないので、どちらにもあんまり身が入っておらず、でも逆にそれが気楽でちょうどいいような気もしている。

婚活はアプリを始めたら色んなひとからぶわーっと連絡が来て、でもそのうち私の条件を満たす人はごく僅かだったうえ(人が少ないアプリを使っているのだ)、なんとなくメールの感じが苦手だとかそういうことでお断りさせていただいたりしているので、今やりとりしているひとは2人しかいない。あんまりここでどの人のどこがどうだとかいうのはその人達に悪いと思うので述べないが、ふたりともすごく良い方で、私以外にもきっとやり取りしている女性はいるだろうし私もいつお断りされるかわかったもんじゃないよな、と思う。婚活での出会いはすごく即物的というか刹那的というか、とにかくお断りされてしまえば二度と出会うことはない関係なので、なんだか寂しいような気もする。でもその割り切った関係こそが数をこなしていくにはちょうどよいのだろう。あしたも婚活の方と出かけるのだが、ちょっと楽しみにしている自分もいる。この縁が繋がればもちろんとても嬉しいし、つながらなくても、明日一日だけでもお互い楽しい時間を過ごせたらいいと思うし、相手のことも知りたいし私のこともわかってほしいと思う。とりあえず、そう思うくらいにはわたしは彼のことを素敵で信頼に足るひとだと感じている。

 

結婚についてはまだ自分自身の問題として捉えられていなくて、本当に結婚することを怖いと捉えているフシもあるのだけど、就職に比べたら全然こわくないのではと思う。

 

そう、就職だ。就活である。

就活もとにかく人に会わなくてはならないという点では婚活とさして変わりはなく、お互いに値踏みが行われるという点では婚活より苛烈な戦いである。しかもここには情報の非対称性があって、社員さんのおっしゃることの何割が信用に足ることなのか、会社で働いたことのない私には皆目検討もつかない。本当に就活は嫌だ。早く終わって欲しいのに、企業からは説明会だの女子会だの模擬監査だのにこないかという勧誘のメールが来る。行きたくなくて体調を崩しそうなほどに、不愉快かつ不快でたまらない。とにかく今は売り手市場であるとのことでそれだけが救いであると思うし、正規ルート(?)で普通に100社とかエントリーしているひとはどんな生活を送っているんだ???と思う。私なんか3社しか見てないのにもかかわらず、こんなに忙しく疲弊している。就活は人のやるものではない。ESもまだ書いてない。つらい.......

 

悲しい気持ちになってきてしまった。

行きたくないという気持ちを押しこらえて私は模擬監査と懇親会の予約メールを出さなくてはならない。泣けてくる。受かってるかもわからないのに。

 

とりあえず人生を頑張ろうと思う。ここがきっと人生の頑張りどころの一つではあるのだろう。就活と婚活と友達との遊びに挟まれて研究生活がやや蔑ろになっているが、これもできる限り改善させたいとは思っている... 

 

今日樹木希林さんが「あんまりがんばらないで、でもへこたれないで」と言っているのを見て、本当にそのとおりだなと思った。人生の座右の銘にしたいぐらいだ。 物事を面白く受け取って、愉快に生きて。あんまりがんばらないで、へこたれないで。