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さらざんまい感想

 

見た当時に書いた感想が出てきたので、載せる。

 

幾原邦彦監督の他の作品では革命を起こしたり生存政略をしたり運命の乗り換えをしなくてはとても生きていけない世界が舞台になることが多い。そんな幾原邦彦監督作品にしては世界をそこまで悲惨なものとして書いてない作品、かなりリアリティに寄せた(いやカッパとか出てくるんだけどさ)話だと思った。罪の償い方がまさかの少年院だし。あのシーンは笑っていいのかどうかわからなかった… いや笑っちゃったけど。他の作品であそこまで行ってしまったキャラクターは、というかピンドラの冠葉は死んでしまったので、とおいも死ぬかもしれんなと心配していた。しかし少年院、つまりこの社会にきちんと実在する施設で、実在する更正プログラムを受けて、人はやり直すことができると最終回で見せてくれた。別に希望の皿なんか使わなくても、少年院に入って罪を償うことはできるのだ。冠葉は 蠍の炎に燃やし尽くされて消えてしまったけれど、現在の社会のシステムの中で罪を償ってまたやり直していけばいい。社会にはそれを受け入れるだけの度量があるよ、と社会の未来を見せてくれた(実際のところ少年院を出た少年には社会は拒否感を示すかもしれないが、そんなこと「だからどうした」なのかも)

 

ピンドラの彼らはトオイのように「繋がりを諦めたくない」ってどうして言えなかったのだろうか。それは彼らの持つ罪の重さなのかもしれないし、あまりにも辛い人生を送ってきたからなのかもしれない。ピングドラムで一番強かったのは 苹果ちゃんで、炎に包まれた晶馬の手を振りほどかれてもなお掴み直そうとしたところからも、彼女だけは諦めてなかった。だから、あのラストは最上の結果ではなく、全員が諦めなければみんなが助かる結末を選び取れたのかもしれない。(映画では違う結末があるといいな、テレビの結末もすごく好きだけど)

 

 最終話で未来が次々と示されていって、それは殆どが悲惨な未来でそれでも諦めずに繋がろうとすることだけが必要なんだ。 欲望と愛の境はなんなんだろうか。 マブを元どおりだと認めることができなかったのは元のマブに「嫌い」と言われたことを受け入れられなかったんだろうな。 わたしはマブが自らカパゾンビとなることを選ぶところはまさに愛だと思った。世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。 愛してるの言葉は禁じられていたけれど、行動でレオを愛していることを常に示していたと思うし、(体を作り変えられてしまったから元どおりには行かず、その昔との違いをレオは受け入れられなかったけれども)絶望して愛を伝えたいという欲望を果たすためにさらざんまいした。ちゃんと繋がりたい。繋がりたいのに、偽りたい。繋がりたいという欲望を手放してはいけないということなのだ。しかし欲望に飲み込まれることなく、絶望を受け入れ、愛をてにいれなきゃいけない。 それにしてもレオマブすごいな。ふったりーはかっぷるーサイコーのカップルーはケッピも歌ってたしカッパ王国ではメジャーな歌なのかな。 あと着地するときさらっとポーズ決めるときに6話ではやっと綺麗に揃うようになってたのに7話では燕太だけずれてたのに気づいて細かいなーって感じた。 最後に誰も死なないで物語から退場することもなくレオマブも戻ってきて終わったのはすごすぎる。誰も欲望を手放さず繋がることを諦めなかったから。

 

基本的に世の中は嫌なことばっかりなんだよな。人間関係なんて、つながることなんて基本的に煩わしい。ピンドラでは一緒に住むことで起こるちり紙をゴミ箱に捨てないなどの小さな煩わしさを「小さな罰ばかり受けてた」と表現した。さらざんまいでも繋がりたいのに偽ったり、裏切ったり、伝わらなかったりする。いい繋がりばかりでもなく、誓はヤクザと繋がってしまったばかりに凶弾に倒れて死んでしまった。だからこそ繋がろうなんて欲望を捨てて諦めることは非常に簡単だし、そのほうが楽。そういう繋がろうと言う欲求を捨てることをカワウソ、黒ケッピは象徴している。 実際のところいつだって我々は繋がりたいのに、さらざんまいできない。さらざんまいなんてやったら200%揉めるし、もう二度と顔も見たくないと思う日だってくるだろう。さらざんまいでも未来はさほど明るくなくトラブルの連続だったし、最期のシュートは入ったのかどうかすらわからない。でもそれでも欲望をつかんで、さらざんまいする人間だけが未来を掴み取れるのだ。めちゃくちゃ厳しいメッセージだと思うけれど、イクニらしい愛に溢れていてたまらなくなった。