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アリエッティの映画版と小説版の違い

ジブリ製作アニメーション映画借りぐらしのアリエッティと原作小説床下の小人たちの比較分析を行う。アニメーション映画借りぐらしのアリエッティは、 元々は、約40年前にアニメーション監督の宮崎駿高畑勲によって当初は『小さなアリエッティ』という題で考えられた企画である。監督に米林宏昌が起用されたのはプロデューサーの鈴木敏夫の提案である。

 原作の小説の著者のメアリー・ノートンは、1929年に世界を襲った大恐慌で、夫の会社が倒産に見舞われ、彼女は4人の子供と共に、ポルトガルからロンドン、そしてアメリカと流浪の人生を送り、1945年の第二次世界大戦終結以降も、イギリスの各地を転々としながら子供のための物語を書きあげた。「床下の小人たち」は1952年にイギリスで出版しその年にカーネギー賞を受賞。2007年には過去70年間の最も重要な児童小説のひとつに選定された。邦訳は1956年に岩波少年文庫より第1作が出版された。訳者は第1作から第4作までが林容吉、第5作が猪熊葉子。海外でも繰り返し映像化されており、ジブリによる映像化は日本に舞台を移してのものとなっていて、原作との相違点が数多くある。

 この原作を映画にするにあたって制作陣が何を表現や強調するために原作をどのように改変したのか、それによってどのような効果が作品全体に現れているのかを、舞台設定とキャラクターの2点に分け、詳細に検証していく。 私はこの原作では小人の冒険や生活の面白さが主題となっているのに対し、映画では少年とアリエッティ恋物語や家族生活の崩壊への警鐘であると考える。  第一に舞台設定について検証を行う。映画では原作における1950年代のイギリスの片田舎の屋敷から日本へと舞台を移しており、具体的に場所や時代は作品中で明らかにされないが、宮﨑駿は2010年の日本の小金井界隈としている。映画に登場する和洋折衷の屋敷や庭園は、青森県平川市の盛美園がモデルとなった。これは対象となる視聴者が映像では現代の日本人であるため、より身近な現代日本の家を描くことで見ている人々により親近感を与えるためであると解釈できる。たとえば原作では小人の家にはアスピリンの瓶や英国製の切手や葉巻たばこの箱が用いられているが、これらをぱっと映像で数秒みせられても、現代日本人には馴染みが薄いため何が利用されているのか映像だけで理解することは困難であると思われる。またこの映画で強調されていることは現代日本人が失った物への感謝の心や崩壊しつつある古典的な家族の形への警鐘である。そのため、舞台を現代日本に移すことにより今ココにある問題を提唱しようとしたのである。

 第二にキャラクターについて検証を行う。アニメーション化にあたって大きく性格や言動が変更されたのはアリエッティと交流する男の子翔である。原作では8歳とされていて、かなり言動が幼稚なところが多々見られ、わがままで欲深くなってしまった人間を象徴している。対して映画では、心臓に重たい病気を持つためにやや自暴自棄、12歳に年齢が変更されたことに加えてもより大人びた、虚無的な考えをするところが見て取れる。これはアリエッティとの人間と借りぐらしの小人、どちらが滅びゆく種族なのか、ということついての対話に原作と映画の違いがよく現れている。原作ではこの対話は人間と借りぐらしの小人の間に横たわる大きな壁を象徴している。原作でこの前にアリエッティが「借り」は盗みではなく、むしろ人間が小人のために存在するのであると明るく人間を嘲笑する。それに怒った少年から自分たち借りぐらしの小人がそのうち滅んでしまうに違いない、と言い返されたことから「借りぐらしの小人は滅んだりしない、滅ぶのは(資源を大量に無駄遣いし自然を破壊している)人間の方であるに違いない」と糾弾する。人間からほんの僅かに資源を借りて慎ましく暮らす小人からの大量消費社会を営む人間への忠告である。対して映画では、手術について悲観的になっている少年が、祖父の遺志を叶えるためや小人のことを思って行った行為が小人をこの家から追い出してしまうことになってしまったことを受け多少やけになりながら「君たちはきっと滅んでしまうだろう」といい、それを泣きながらアリエッティに批判されると、「死ぬのは僕の方だ」と自分の中にある手術への恐れや死への不安から思わず口にしてしまったのだと謝罪する。この対話は原作からかなり改変されているため、原作と異なりこの対話の表現的目的は小人と人間の相容れない違いや大量消費社会を営む人間への批判ではなく、アリエッティと少年翔の心の交流である。このように別れを告げに来たシーンで重要な対話を挿入することにより、出会いと別れによる少年少女の成長を物語論的に展開していることが言えるであろう。

 また、アリエッティ父親ポッドのキャラクターも大きく変更されている。原作でも映画でも父ポッドは借りの名人としてよく人間たちの家から小さなものをかき集めてくることは変わらない。しかしその性格は原作ではより抑圧的で、そもそも娘が借りに行くことを好ましく思っていない。このあたりが映画では改変されており、ポッドは原作よりも落ち着きがあり、寡黙だが頼れる日本的な理想的父親像として扱われている。これにより両親は離婚して父親とは別れて暮らし、また手術直前であるにもかかわらず母親と離れて孤独に暮らしている翔が人間の家族的繋がりが現代において希薄になりつつあることを象徴し、さらに反対に優しく穏やかだがしっかりと家族を支える父とヒステリックな面も持つが優しさに溢れ家の中にこだわり針仕事などをこなす母に囲まれた、ある種の家制度にも似たかなり日本的かつ旧家族的な家庭に暮らすアリエッティが表現されていることにより、翔の孤独さが強調されている。このことにより映画は、現代日本人が軽んじるようになった昔的な家族のあり方というものの暖かさや支えあっていけることの喜びを表現している。

 最後にキャラクターにおける原作と映画の大きな変更点として原作において顕著であったアリエッティの外への渇望が映画では小さく取り扱われていることがあげられる。原作ではアリエッティは床下の家の中から出ることを両親に禁じられており、家から出る扉はアリエッティには開けられない大きい安全ピンで錠が成されていた。このことから彼女は外の世界への渇望を常に抱いており、それが行動の動機付けとなることが多い。しかし映画では人間の家に出ることは禁じられているものの、床下の家の中に閉じ込められているわけではなくむしろ自由に屋外へ出て草花を採ったり虫と戯れたりと自然との関わりを楽しんでいることがオープニングから表現されている。このことが現代の日本人が忘れてしまった自然との関わりの大切さや豊かさを見ている人々に訴えかけているのではないだろうか。

 以上の映画と原作の相違点を注視した検証により、私はこの映像化により原作者の主題とはまた異なった映画の製作者たちの考えをより深く理解することが出来た。また映像化において視聴者に対し世界やキャラクターを理解してもらうための工夫や表現の仕方についても学ぶことが出来たといえる。